2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

2013年3月23日 (土)

気仙沼からの手紙

 昨日、気仙沼から、お手紙が届きました。2年前、ボランティア活動を
 したことへの礼状でした。心のこもった文章で、当時を思い出し、心が、
 どよめきました。お礼状をいただいたことも、うれしかったのですが、
 それ以上に、こうした礼状を出すまでに至った、そのことが、うれしく
 思いました。きっと、一日も早く礼状を出したいと思いながら、その作業に
 かかるだけの余裕が、この2年間、なかったことでしょう。

 同封されていた「気仙沼ファンクラブ」への入会申込書。もちろん、
 即刻、入会しました。

2012年6月18日 (月)

気仙沼到着。

 昨日、無事、気仙沼入りしました。今朝は、いきなりの地震で、ちょっと
 驚きました。幸い震度4と、強い揺れではなかったのですが、体感的には
 揺れが、かなり、長く続いたので、不安を感じました。気仙沼市街より、
 3km ほど山寄りにある「にいつきパーキング」が昨夜のP泊地でした。
 トイレ設備だけある、あっさりしたパーキングです。去年は、もう少し
 街に近いボランティアセンター近くの駐車場で過ごしたわけですが、
 そこは、TVの電波が入りにくく、朝の連続ドラマを見るのに苦労した
 のですが、ここ「にいつきパーキング」は、さらに、電波が弱いのです。
 昨夜は「平清盛」を見るのに、途切れ途切れで、しょっちゅう画面や音が
 途絶えて、想像力をかき立てるドラマ展開となってました。今朝のように
 地震が起きたとき、TVの情報が一番早くて正確だと期待できるので、
 受信できないと不便を感じるのです。ネットで震度4とわかり、ラジオで
 少し詳細な情報が得られたのですが、津波の心配があるのかどうかが
 わかるのに一時間くらいかかったのでは、情報としての価値が、あまりに
 低すぎます。

 昨日は、18時半頃、気仙沼に到着して、宿泊地近くの民家に、まず、
 「帰省」のあいさつに行きました。ご夫婦とも私を覚えていてくれたので
 うれしく感じました。今日は、お世話になった市の職員の方を訪ねて
 みようと思います。そのあと、新しくなったボランティアセンターに
 行って、私にも、できるようなニーズがあるかどうか聞いて、今後の
 予定を立てようと思ってます。

2012年3月18日 (日)

あれから、1年 Ⅲ

 任侠映画を見た後、肩を怒らせて映画館から出るように、あまりにも、
 ガチガチに使命感を高めて、気仙沼入りしてしまった私は、ボランティア
 受付をしたとき、泥だしをしますか?支援物資の仕分けをしますか?の
 2択に、正直、物足りなさを感じてしまったのでした。長期有休取得の
 ために、会社に行動計画書を提出してからでも、すでに、5日も経って
 いましたから、被災地に、どんなニーズがあるのか、できるだけ調べて
 自分に何ができるかを自問し続けていました。一方で、瓦礫片付け、
 泥だし作業用にゴム手袋や釘を踏み抜かないための中敷きだとか、
 事前に調べた範囲で、いろいろ、用品の準備もしていました。ボランティア
 センターを訪れた初日、在宅被災者支援をしたいだの、パソコンデータの
 復旧を望む被災者からのニーズは、ないかだの、スタッフに問い質して?
 応対した方は、さぞかし、迷惑だっただろうと思います。

 とにもかくにも、ボランティア活動を開始し、活動先で、私よりもさらに
 アクの強いボランティアの方を見かけたかと思うと、黙々と与えられた
 仕事をこなしている方もいました。そして初日が過ぎ、二日目、三日目と
 活動自体は単調な毎日を重ねていくうちに、自分に何ができるかではなく
 相手が何をして欲しいのかが重要なのだということを、少しずつ、学んで
 いったのでした。

 支援物資関係の個人ボランティアは、中学生から80才を越えるお年寄り
 まで、それこそ、老若男女、さまざまな方がいらっしゃいました。期間中
 最初のうちは、主力は大学生と高校生でしたが、後半は、30~50代の
 女性が中心となってきました。自治労の方が、その日、その日の必要な
 人数だけ、いらっしゃったし、地元の若者が数名、作業リーダーとして
 毎日、来てくれていました。現地責任者として市役所の職員の男性が、
 一名と、公民館勤務だったという女性が一名いらっしゃいました。大量に
 荷物の搬入搬出がある日は、自衛隊の支援がありました。

 ところで、現地責任者の方も、作業リーダーの方も、現地の方ですが、
 意外なことに、10日くらいの間、彼らから、私も現地の人間と思われて
 いたのです。他のボランティアの方とは、昼食時などの雑談で、岡山から
 来たということを話してましたし、自治労の人の中に岡山県から来た方を
 見つけると積極的に話しかけたりしていたので、本当に意外でしたが、
 考えてみると、最初の10日ほどは、彼らには雑談するヒマなどなかった
 のでした。それはそれとして、そんなに長いこと、現地の人と思われて
 いたことは、けっこう、うれしいことでした。

 個人ボランティアの人数は、毎日、変化します。二十数名のときもあれば
 数名の時もあります。団体ボランティアの方が参加する日には、一挙に
 数十名に、ふくれあがります。一方、作業量も、一定ではありません。
 大量に荷物が届く日もあれば、まったく、荷物の搬入搬出がない日も
 あります。支援品の仕分けの仕事は、最初こそ、永遠に続くかというほど
 ありましたが、整理と配布が進み、支援品の到着もピークを過ぎると、
 徐々に減っていきました。そして、西高校からKウェーブに集積場所が
 移動した4月の終わりには、常駐スタッフだけで処理できるだけの量に
 なって、ボランティアの募集がなくなってしまいました。

 しかし、その間、毎日変化する人数を、毎日変化する作業量に振り当てる
 現地責任者の采配は、まさに、神業としか言いようがありませんでした。
 それでも、現場には、次々と問題が発生し、作業を進める上での疑問も
 発生します。作業リーダーのところで解決できる問題はいいのですが、
 そういう問題なら、ベテランのボランティアでも解決できるワケで、結局
 起きた問題のほとんどが、現地責任者に集中することになります。私も
 最初の内は、こういう問題が起きているのでどうしたらよいか?という
 動きしかできませんでしたが、あるときから、こういう問題が起きている
 ので、こうしようと思うがよいか?というカタチになり、最後には、
 おまかせ~ということになっていきました。私のように三週間にわたって
 活動をする人は、ほとんどいなくて、長い人で、一週間、たいていは、
 2、3日で、姿を見かけなくなります。作業リーダーさえ顔ぶれが変わり
 ますし、自治労の方は、一週間ごとに総入れ替えです。だから、現場に
 おける生き字引?のような存在としての私の居場所ができてきました。

 老若男女、いろんな人がいると、さまざまな不平不満の芽のようなものが
 出てきます。そこで、一種の通訳のようなことを私の役割としてやって
 みました。たとえば、自治労の人が、「ボランティアの人は、指示待ち
 だから…」という不満?を漏らすのを耳にしたら「指示系統が、必ずしも
 整然としていないので、どうしても、バラバラな指示が出てしまう。
 そのため、無駄な動きを何度も経験して、指示がある程度固まってから
 動いたほうがよいと学習した結果、一見、指示待ちみたいになってるん
 ですよ」とか、何度、掃除しても砂が溜まってきれいにならない場所を
 通りかかった自治労の人に「あそこ、掃除しといて」と、指示されたのを
 見かけたとき「ここは、どうやっても、きれいにならないってこと、
 知らないから、あんなふうに言ったと思う。ごめんねー」と、声を
 かけたり、若い人が…とか、あのおばさんが…とか、不満が起きそうに
 なると、あれはね…と、解説?してみたりすると、笑顔が戻ったりする
 ので、やりがいがありました。ただし、あのおっさんが…という私への
 不満が出ていたとしたら、それに対しては、ごめんねーとしか言いようが
 ありませんけど。

 ボランティアの現場は、なんだか、社会の縮図で、個人ボランティアが
 一般市民とすると、自治労の方は、官僚。自衛隊は自衛隊として(彼らは
 スゴイ。とにかく、スゴイ。今回、自衛隊の人に対する私の眼は完全に
 変わりました)赤十字の人は、なんというか、ボランティア社会の頂点に
 君臨する共産圏で言えば共産党のような存在でした。一般社会との最大
 かつ決定的な違いは、ボランティア現場では、貨幣が介在しないのです。
 そのため、とても、シンプルに社会の構造みたいなものが、くっきりと
 浮かび上がったのかも知れません。ジオラマのように全体が見渡せるので
 何だか、これまで、非常に複雑だと感じてきた社会というものが、案外、
 単純なものかも知れないという錯覚に陥るほどでした。

 活動の中で、本当に追い詰められた被災者の方も見かけましたし、明るく
 談笑していても、ふとした瞬間に底知れぬ不安を見せる被災者の方も
 いました。でも、ほとんどの方々は、とても、暖かく、私のような者も
 受け入れてくれる懐の深さを見せてくれました。三週間という期間、
 ありがとうと、ご苦労様の言葉だけを受ける生活を送ったということは、
 私の人生の中でありませんでしたから、なんとも、貴重な経験でした。
 結局、自分がやりたいことよりも、相手がやって欲しいことをやっていく
 うちに、だんだんと、自分の居場所が見つかり、自分のやりたいことも
 見えてくるという自分の会社勤めの中では得られなかった教訓を今回の
 ボランティア活動の中で得ました。他にも、どれほどの多くのことを
 得たのか、今はまだ、わかっていないことも、たくさんあると思います。
 私を取り巻く多くの方に、ありがとうと申し上げて、「もうすぐ、一年」
 「あれから、1年」の稿を終えます。ありがとうございました。

2012年3月13日 (火)

あれから、1年 II

 出発前から決めていたことですが、ボランティア活動中にも、休日を取る
 ことにしていました。最初の休日は、バッテリートラブルへの対応で
 終わってしまいましたが、それでも、日帰り入浴施設で、ゆったりと
 したのでした。次の休日は、後生掛温泉に行きました。

Img_5007

 4月23日だというのに、この雪量です。

 前日の夜に気仙沼を出発し、高速のPAで早めの就寝。後生掛に着いた
 のは、午前6時前だったので、営業開始の8時まで待たねばなりません
 でした。土曜日でしたが、そんな時間帯なので、休憩室は、貸し切り状態。

Img_5011

 浴室は、総ヒバ作りで、もちろん、床もヒバ。さほど、広いというわけ
 でもないのですが、泡風呂、箱蒸し、泥風呂、打たせ湯と、いろいろ、
 楽しめます。露天風呂もありますが、昔来たときには、混浴だったのが、
 男女別に仕切られてしまっていて、そうでなくとも、狭い露天風呂が、
 さらに、半分になってました。そういえば、混浴だったとき、湯船に
 浸かってると、男湯から出てきた人が「お、おかあさん…」と絶句して、
 内湯のほうに戻っていきました。たぶん、露天風呂に義理の母親を
 見つけたので、きまりが悪くて戻っちゃったのかな?

 次に休みをとったのは、4月26日。この頃には、支援物資の集積場が、
 西高校からケー・ウェーブ(気仙沼市総合体育館)に移動していて、
 配布が進んで、物資の量も、かなり減ってきていました。受け入れる量も
 減って仕分け作業のニーズも少なくなり、ボランティアの募集自体が、
 なくなってきてました。5月からは、職場に復帰する約束でしたし、
 最後に津波被害の状況を見ておこうと思ったのです。

Img_5037

 陸前高田です。地盤沈下の影響でしょうか浸水していました。

Img_5036_3

 上が、2011年4月26日の画像。下が、2011年9月のストリートビューの画像

5036st

 ほぼ、全壊だった家屋は、同じ場所に建て替えたように見えます。同じ
 場所の山側は、下の画像のように瓦礫が散乱していました。

Img_5034

 この日、もっとも、衝撃を受けた光景が下の画像です。

Img_5039

 コンクリートの鉄橋が川を遡ってきた津波に流されてしまって、引き
 ちぎられたレールが、ぶらさがっています。

Img_5042

 自衛隊の幕営地をいくつも見かけました。

Img_5043

 道路状況が、わからなかったので、この日は、エイプで走りました。
 陸前高田市、大船渡市、釜石市、山田町と海沿いを北上し、宮古市から
 R106を西に進み、R340を南下して遠野経由で気仙沼に帰る
 約300km の行程でした。写真を撮る姿を地元の人に見られたくなかった
 ので、数枚しかありませんが、惨状を写した画像を掲載します。

Img_5044

Img_5045

Img_5048

 明日も仕事なので、そろそろ、寝ます。おやすみなさい。

2012年3月11日 (日)

あれから、1年

 なぜ、ボランティア活動に参加してみようという気になったかというと、
 震災当日のTVの映像、特に津波が名取市を飲み込んでいく様子の
 ヘリコプターからの映像をリアルタイムで見ながら、それこそ、人生で
 最大の衝撃を受けたことが、きっかけだったと思います。気仙沼の
 いつ終えるとも知れない火事の映像も衝撃でした。でも、さすがに、
 TVの映像を見て、すぐ、思い立ったわけではありません。
 
 阪神のとき、雲仙のとき、新潟のとき、何の行動もできなかったことが、
 心の奥に何らかの火種を残していたということもあったと思います。
 でも、直接的な動機は、さほど、ホメられたものではありませんでした。
 ひとつは、ヤジ馬根性とでも呼ぶべき物。これだけの出来事を実際に
 自分の目で見ておきたいという欲望。雲仙のときって、そうでした。
 女房に叱られたので行けませんでしたが。もうひとつは、3月の終わり
 あたりから、仕事がヒマになってきていて、4月になると、ほとんど、
 仕事が無くなってしまいました。震災の影響でメーカーの生産が停止して
 商品が供給されなくなってしまったのです。朝、1時間も仕事をすると、
 夕方まで、何も仕事がない状態でした。見込みとしては、5月いっぱい、
 そんな状態が続きそうでした。10年くらい前に左遷されて、一日の
 半分は机の前で、ボーッとしてるしかないという閑職を与えられ、閉口
 したのです。忙しすぎるのも困りますが、ヒマ過ぎるのは、もっと、困り
 ます。それに、あまりにもヒマだと、他の営業所に応援というカタチで
 臨時配転させられ、雑用ばかりさせられるかも知れません。

 でも、仕事がヒマだということは、長期の有休を取っても、誰にも迷惑を
 かけないというボランティア活動を行うための環境が整っているという
 ことでもあります。さらに、私は、hana ちゃんを持っているので、被災地
 での生活を自己完結できるという環境も整っていました。

 そこで、女房に話すと、やはり、そこはそれ、あまりホメられたものでは
 ない部分を見透かされ、猛反対を受けました。もちろん、余震が収まって
 いないし、フクシマのこともありますから、私の身を案じての反対でも
 あったと思います。

 で、もう一度、自分の心の中を見つめ直し、感心できない動機もあるけど
 比率から言うと、感心できる動機のほうが少しだけ多い…というより、
 多くなるように増強して、やるなら、ちゃんとやろうという決意を固めて
 いきました。何もやらずに後悔するよりも、とにかく行動して、それで、
 失敗するなら、それはそれで、何かを学ぶだろうし、老後、町内会の
 仕事をやっていく上でも、そうした現場を見て動いて経験しておくことは
 プラスになるだろうし、他にも、いろいろ考えて、自分の気持ちを固め
 直しました。結果的には、このプロセスは重要だったと思います。でも、
 あまりにも、ガチガチに使命感を高め過ぎた面もあったのですが、そこは
 それ、生来のいいかげんさで、その面での弊害は、ほとんど無しで済み
 ました。

 で、やっと、女房の許しを得て ( っていうか、勝手にするならしろって
 感じ?) 会社の許可も得て、町内会長にも話して、留守中の引き継ぎを
 前任者にお願いして、ウォシュレットの工事日を一週間早めてもらって…
 と、準備をしていきました。現地で必要になる物の調達や、何しろ、
 未経験のボランティア活動ですから、それについての知識を仕入れて
 いきました。

 4月7日、岡山市の社会福祉協議会の事務所に行き、ボランティア登録と
 ボランティア保険への加入をしました。岡山で、そうした手続きをする
 ことで、現地の事務手続き負担を減らすことができるとネット検索で
 事前に知っていたからですが、少しでも多くの情報収集をしておきたい
 という考えもありました。ありがたいことに、現地から帰ったばかり
 というスタッフの方から、現地情報をいただきました。いろんな話を
 していただき、その方も、現地に飛ぶ前に、奥さんから「何で、あなたが
 行かなければならないの」と、なじられたと、おっしゃってました。
 当初の予定では、県外からのボランティアを受け入れている多賀城市に
 向かうつもりでしたが、仙台から近いという地理的な条件から、多くの
 ボランティアが入っているから、行くなら、絶対的に人員不足を起こして
 いる気仙沼に行ったらどうかと、そのスタッフの方に勧められたのが、
 気仙沼を選んだ理由です。でも、正直、TVの大火事の映像が頭に焼き
 付いていて、少し、ビビリました。気仙沼って、宮城?岩手?っていう
 くらい、何の知識も、ありませんでした。

 下の写真は、寝室モードの「豪邸」です。

Img_5000

2012年3月10日 (土)

もうすぐ、一年 II

 毎朝、8時半からボランティアセンターにおいて、その日の受付が行われ
 ます。支援物資関係か、泥だしか、各自が希望する活動内容に従って、
 リストに住所氏名を記入し、支援物資関係のボランティアは9時頃に
 迎えに来るマイクロバスに乗って気仙沼西高に向かいます。活動内容は、
 全国から集まった支援物資の搬入と、各避難所などへの搬出、搬入された
 物資の仕分け、期間中2回あった支援品配布会の準備と当日のスタッフ
 仕事、後片付けなどです。

Img_4988

 上の写真は、4月16日に西高校で行われた支援品配布会の様子です。
 衣類は男物肌着とか、婦人用冬物とか、子供女児用など十数種類に分類
 されていて、サイズ別の靴やタオル類なども自転車置き場に設けられた
 配布品コーナーに並べられています。配布希望者は、当日配られる70L
 くらいのビニール袋に希望の品を詰めて持ち帰ります。一回当たり、
 100人ぐらいが、必要な物を入手していきます。10分間の制限時間が
 過ぎると次の100人と入れ替えになり配布を受けます。スタッフは、
 空になったダンボール箱を片付けたり、少なくなった品目を補給して
 いきます。被災者に応対して物資を渡すのもボランティアの仕事ですが
 会場の警備や、全体の進行などは、自治労の人たちが行いました。
 この日は、2,000人くらいの方が、いらっしゃったようです。途中から、
 一回の入場者数を150人に増やしたので、3時間程度で配布会は終了
 しました。

 さて、毎日、自炊で、どのようなものを食べていたかというと…

Img_4990

Img_4992_2

Img_4997

Img_4999

Img_5030

Img_5033

Img_5049

Img_5051

Img_5057

Img_5085

 原則として、炊きたてゴハンと、1品だけという食事ですが、意外と
 おいしいのですよ。調理時間は15分以内。フライパンの様な調理具は
 炒め物、汁物、蒸し物が、これひとつでできるので、キャンカー生活には
 重宝してます。朝は、冷やゴハンをレンジで温めて、インスタントの
 ミソ汁と、なめ茸や海苔の佃煮をおかずにしました。

 毎日の活動は、15時には終了になるので、マクロバスで送ってもらって
 3時半には、車に帰り着きます。そのあと、夕食までの時間を、その日の
 予定に従って、コインランドリーに行ったり、入浴したり、食料品の
 買い出しに行ったりしました。入浴は、ゴミ焼却場の廃熱を利用した
 浴場があり、200円で利用できるので、もっぱら、そこを使いました。
 
 こうして、外食を控えたおかげで、出発から帰宅までの3週間に要した
 費用のうち、燃料代や高速代、バッテリートラブルによる修理代や
 バッテリー代を除く純然たる生活費は、26,075 円で済みました。
 この中には、5千円ほどの土産代も含みます。

 家を空けたのは、3週間でしたが、行きと帰りに2日ずつ要しましたし、
 バッテリートラブルや、休養のため3日休み、ボランティアの募集が
 無かった日もあって、実働13日間の活動でした。うち、12日は、
 支援物資関係の活動で、1日だけ、泥だしの活動もしました。正直な
 ところ、泥だしは、体力的にキツく、これだけだったら、13日も
 働くことができたかどうか、自信がありません。
 

2012年3月 9日 (金)

もうすぐ、一年

 私が、気仙沼に入ったのは、去年の4月11日、震災から一ヶ月経った日
 でした。

Img_4968

 駐車場所に指定された公園は、ボランティアセンターのすぐ近くにあり、
 ボランティアの簡易宿泊所として、ゲルが2張、建てられていました。
 その日のうちに、ボランティア登録をしましたが、このときはまだ、
 正式には、気仙沼ボランティアセンターでは、応募は県内の人に限ると
 していました。しかし、登録時には、そのことに触れられることもなく、
 受け付けていただきました。あとで聞けば、震災直後から県外からの
 ボランティアを受け入れていたようで、4月12日には、気仙沼でも
 県外からのボランティアを受け入れることになりましたから、私は、
 最後のモグリ登録者だったかも知れません。

Img_4970

 公園内の芝生に土筆が顔を出していました。梅の花も、3分咲き。岡山に
 比べると、一ヶ月くらい遅い春の訪れでした。

Img_4982

 翌12日から、気仙沼西高校の体育館に集積された全国からの支援物資の
 搬入搬出、仕分けなどの業務に携わりました。

Img_4985

 活動日の朝晩の食事は、hana ちゃん内での自炊。お昼は、クラッカーとか
 ビスケット、菓子パンなどの食糧が活動先で支給されました。通常は、
 ボランティア活動において、このような支給はないのですが、被災者でも
 ある高校生が多くボランティア活動に携わっており、彼らに自ら弁当を
 用意せよとは言えないという事情もあり、軽食を用意するようになったと
 聞きました。他の瓦礫撤去、泥だしの活動においては、このような軽食が
 提供されることは原則ありません。

 出勤時間が迫ってきたので、続きは、今夜にでも。

2011年5月26日 (木)

なんとか、しようよ。

 一連の海水注入中断騒ぎ。「アホらし」のひとこと。菅は、ヒドイかも
 知れないけれど、それを降ろすことばかり考えてる自民党って、
 さらにヒドイ。民主党も民主党で、菅おろしを画策して内部で
 動き回ってるっていうのも、さらに、ヒドイ。そんなことより、
 原発にしても、ガレキ処理にしても、仮設住宅にしても、いくらでも
 やることはあるでしょうに。政権の打つ手がダメなら、国民の多くを
 うならせるような名案を絞り出して示せば、いいでしょう。それを
 政権が取り上げなければ、批判は高まるだろうし、提案をした政党の
 株はあがるでしょう。つまり、批判するか支持するかは国民に
 まかせてください。「国民を代表して批判する」なんてこと、頼みたくも
 ないし、支持しません。
 
 東電や、菅総理を悪者にすれば、相対的に自分たちの株があがると
 思っているなら、とんでもない思い違い。今は、そんなことする間が
 あるなら、もっと、きちんとした復興プランを練るべきだし、もし、
 脱原発を目指すなら、その得失をキチンと明示して、何を選び、
 何を捨てれば、脱原発に、たどり着くことができるのかを説明すべき。
 その中から国民的合意に至る道筋をつけるのが政治家の役割だし、
 それができないのであれば、バッジをお返しなさい。議員数6名で
 いいのは、鳥取じゃなくて、国なのかも。
 
 JRの山崎前社長が、事故予見可能性を否定したからといって、
 「正直に話すのが償いになると言っていたのに完全に裏切られた」と
 遺族が言ったと報道されているが、これも、おかしい。危険を認識して
 いなかったというのが、正直なところだとしても、ありえない話では
 ないのに、ホントに、遺族が言った言葉なのですかねえ。償いをする
 ということと、作為があったかなかったかということは、別のこと。
 なんだか、これも、検察や、マスコミの作った「ストーリー」に
 沿わないものは切り捨てるという、つい、最近あったばかりの間違いを
 繰り返そうとしてません?
 
 下請けばっかりに危険な作業をさせて、東電の役員も社員も安全な
 ところにいる…みたいな論調をあちこちで聞くのだけれど、これも、
 非常に、ヘン。東電は、今回の震災で被災した企業の中でも、
 ダントツに大きな被害を受けた事実は動かしがたいし、社員の多くも
 被災者。それにも関わらず、必死に復旧に携わっている。それを
 応援支援するのが、政府、保安院、ひいては、国民の役割でしょうに。
 それなのに、現場が、緊急事態の中で、海水注入を続行したから
 といって、戦時中の関東軍の暴走を引き合いに出して「けしからん」
 などという人間は、報道に関わって欲しくない。
 
 木村太郎さん、あなたのことですよ。

2011年5月11日 (水)

その前、その後

 「菅総理が、いいことを言った」
  浜岡原発停止は、大多数の素人の不安に応えることになり、私も、
  不安を抱えていたわけで、大賛成です。こんなことは、菅総理しか、
  できない離れワザです。もし、このタイミングで、誰かに総理の
  椅子を譲るなら、歴史に名を残す名宰相となれるんですけど。
 
 「アケビとムベ」
  花のカタチが、全然、違うのですね。

Img_5100

  ↑↑↑が、アケビの花で、
 
  ↓↓↓が、ムベの花。

Img_5103
 
 
 「ウォシュレット」
  ボランティアに出かける直前に、念願のウォシュレットを我が家に
  導入したのでした。正確に言うと、ボランティアに出かけるために、
  予定していた工事日を一週間繰り上げてもらったのでした。いやあ、
  ウォシュレットって、ホントに、快適です。
 
 「Windows 7」
  これも、出かける前、ついに導入し、ひとつ、不具合があったので、
  ショップに、持ち込んで解決してもらい、受け取って、確認する間も
  なく、出発したのでした。帰宅後、どうも、不具合が解消していない
  ようだったので、再び、ショップに持ち込んで、今度こそ、解決した
  ので、さて、いろいろ、設定していくかなというところ。

2011年4月 8日 (金)

ボランティア参加

 アメリカでGMやフォードが、操業停止に追い込まれるほどですから、
 岡山にいても、東日本大震災の影響は、なしには済みません。
 私の職場も、メーカーが、極端な減産体制下にあり、品物が入って
 来ないので、在庫分が無くなった先月末から、すっごく、ヒマです。
 しかも、少なくとも、6月までに、この状況が好転することはない
 というメーカーの予測も示されました。
 
 毎朝、出勤はするものの、夕方まで、まったく、仕事がなくて、
 やっと、出番が来ても、同僚たちもヒマなもんですから、よって
 たかって取りかかるので、あっというまに、仕事が済んで… 
 あとは、ひたすら、終業時刻が来るのを待つだけ…
 
 仕事もせずに、給料だけは、いただけるんですから、一見、こんなに
 イイ話はないっていうふうにも思われそうですが、ヒマも度を超すと
 苦痛なんですよ。十年ほど前に、閑職に追いやられ、どんなに引き
 延ばしても、一日平均、2時間程度しか仕事がなくて、敷地を囲む
 植え込みに生えたススキを根絶やしにする作業で時間をツブしたり、
 12月から1月にかけて、夕日が沈む方角と時間を毎日ボーッと
 眺めていて、そうか、冬至とは、単に昼間が短いだけで、日没が、
 イチバン早くなるのは、12月の10日ごろ。日の出が、イチバン
 遅いのは、1月の10日ごろ。その中間にあって、それなりに
 日の出が遅く、日没の早い12月の20日すぎあたりが、イチバン
 昼間の時間が短くなるのだなどということを知ったのも、そのころ
 のことでした。
 
 さいわい、その職場は、1年ぐらいで、転勤になり、より単純な
 労働ではあるものの、とりあえず一日中、仕事がある現在の職場に
 来たのでした。それが、今回の震災で、またまた、ヒマ地獄に陥いり
 そうになって、ゲンナリしました。なんとか、この状況から、脱出
 するには…と、考えた中から生まれたアイディアが、そうだ!!
 震災ボランティアに行こう!というものでした。
 
 こうした、あまり、ホメられたものではない動機をみすかされてか、
 女房からも、反対され、今一度、自分の心の中をのぞき込んだり、
 はたして、何ができるのかについて、自問自答を繰り返しました。
 で、結論として、きっかけに、不純な面があることを自認しつつ、
 在宅被災者への支援など、組織の中にいないからこそできそうな
 支援もあるだろうし、hana ちゃんに乗って行けば、寝るところと
 食べることについては、自己完結できるし、何かができるはずと
 信じ、万一、何もできなくとも、それはそれで、何かを学ぶことが
 できるに違いないと考えたのでした。そうした気持ちを、ぽつり、
 ぽつりと女房に話していって、「まあ、好きにすれば」と、許可を
 もらうのに、三日かかりました。
 
 女房への説得と同時進行で、来週に予定していた我が家のトイレの
 ウォシュレット化を一週早めてもらいました。義妹のとこで、
 パソコンを追加購入したので、以前からあったパソコンと同時に
 ネットへの複数接続ができるようにルーターを設置したりとか、
 現地の状況やボランティア活動のイロハなどの情報も収集しました。
 
 女房の許可が降りてから、町内会の会計をやってるので、それの
 引き継ぎや、会社への届け、岡山市ボランティアセンターに行って
 ボランティア保険に加入したりしました。
 
 最初は、県外からのボランティア受け入れを表明している多賀城市を
 めざそうと思ったのですが、4月1日まで、現地に行ってたという
 岡山市ボランティアセンターの方から、仙台から近いという地理的な
 条件もあって、多賀城市では、ほぼ、ボランティアの数が足りてきて
 いる。現在、圧倒的に不足している気仙沼に行ってはどうかとの
 アドバイスをもらったので、明日の夜中に出発して、4月11日に
 気仙沼災害ボランティアセンターに申し込んでみようと思います。