任侠映画を見た後、肩を怒らせて映画館から出るように、あまりにも、
ガチガチに使命感を高めて、気仙沼入りしてしまった私は、ボランティア
受付をしたとき、泥だしをしますか?支援物資の仕分けをしますか?の
2択に、正直、物足りなさを感じてしまったのでした。長期有休取得の
ために、会社に行動計画書を提出してからでも、すでに、5日も経って
いましたから、被災地に、どんなニーズがあるのか、できるだけ調べて
自分に何ができるかを自問し続けていました。一方で、瓦礫片付け、
泥だし作業用にゴム手袋や釘を踏み抜かないための中敷きだとか、
事前に調べた範囲で、いろいろ、用品の準備もしていました。ボランティア
センターを訪れた初日、在宅被災者支援をしたいだの、パソコンデータの
復旧を望む被災者からのニーズは、ないかだの、スタッフに問い質して?
応対した方は、さぞかし、迷惑だっただろうと思います。
とにもかくにも、ボランティア活動を開始し、活動先で、私よりもさらに
アクの強いボランティアの方を見かけたかと思うと、黙々と与えられた
仕事をこなしている方もいました。そして初日が過ぎ、二日目、三日目と
活動自体は単調な毎日を重ねていくうちに、自分に何ができるかではなく
相手が何をして欲しいのかが重要なのだということを、少しずつ、学んで
いったのでした。
支援物資関係の個人ボランティアは、中学生から80才を越えるお年寄り
まで、それこそ、老若男女、さまざまな方がいらっしゃいました。期間中
最初のうちは、主力は大学生と高校生でしたが、後半は、30~50代の
女性が中心となってきました。自治労の方が、その日、その日の必要な
人数だけ、いらっしゃったし、地元の若者が数名、作業リーダーとして
毎日、来てくれていました。現地責任者として市役所の職員の男性が、
一名と、公民館勤務だったという女性が一名いらっしゃいました。大量に
荷物の搬入搬出がある日は、自衛隊の支援がありました。
ところで、現地責任者の方も、作業リーダーの方も、現地の方ですが、
意外なことに、10日くらいの間、彼らから、私も現地の人間と思われて
いたのです。他のボランティアの方とは、昼食時などの雑談で、岡山から
来たということを話してましたし、自治労の人の中に岡山県から来た方を
見つけると積極的に話しかけたりしていたので、本当に意外でしたが、
考えてみると、最初の10日ほどは、彼らには雑談するヒマなどなかった
のでした。それはそれとして、そんなに長いこと、現地の人と思われて
いたことは、けっこう、うれしいことでした。
個人ボランティアの人数は、毎日、変化します。二十数名のときもあれば
数名の時もあります。団体ボランティアの方が参加する日には、一挙に
数十名に、ふくれあがります。一方、作業量も、一定ではありません。
大量に荷物が届く日もあれば、まったく、荷物の搬入搬出がない日も
あります。支援品の仕分けの仕事は、最初こそ、永遠に続くかというほど
ありましたが、整理と配布が進み、支援品の到着もピークを過ぎると、
徐々に減っていきました。そして、西高校からKウェーブに集積場所が
移動した4月の終わりには、常駐スタッフだけで処理できるだけの量に
なって、ボランティアの募集がなくなってしまいました。
しかし、その間、毎日変化する人数を、毎日変化する作業量に振り当てる
現地責任者の采配は、まさに、神業としか言いようがありませんでした。
それでも、現場には、次々と問題が発生し、作業を進める上での疑問も
発生します。作業リーダーのところで解決できる問題はいいのですが、
そういう問題なら、ベテランのボランティアでも解決できるワケで、結局
起きた問題のほとんどが、現地責任者に集中することになります。私も
最初の内は、こういう問題が起きているのでどうしたらよいか?という
動きしかできませんでしたが、あるときから、こういう問題が起きている
ので、こうしようと思うがよいか?というカタチになり、最後には、
おまかせ~ということになっていきました。私のように三週間にわたって
活動をする人は、ほとんどいなくて、長い人で、一週間、たいていは、
2、3日で、姿を見かけなくなります。作業リーダーさえ顔ぶれが変わり
ますし、自治労の方は、一週間ごとに総入れ替えです。だから、現場に
おける生き字引?のような存在としての私の居場所ができてきました。
老若男女、いろんな人がいると、さまざまな不平不満の芽のようなものが
出てきます。そこで、一種の通訳のようなことを私の役割としてやって
みました。たとえば、自治労の人が、「ボランティアの人は、指示待ち
だから…」という不満?を漏らすのを耳にしたら「指示系統が、必ずしも
整然としていないので、どうしても、バラバラな指示が出てしまう。
そのため、無駄な動きを何度も経験して、指示がある程度固まってから
動いたほうがよいと学習した結果、一見、指示待ちみたいになってるん
ですよ」とか、何度、掃除しても砂が溜まってきれいにならない場所を
通りかかった自治労の人に「あそこ、掃除しといて」と、指示されたのを
見かけたとき「ここは、どうやっても、きれいにならないってこと、
知らないから、あんなふうに言ったと思う。ごめんねー」と、声を
かけたり、若い人が…とか、あのおばさんが…とか、不満が起きそうに
なると、あれはね…と、解説?してみたりすると、笑顔が戻ったりする
ので、やりがいがありました。ただし、あのおっさんが…という私への
不満が出ていたとしたら、それに対しては、ごめんねーとしか言いようが
ありませんけど。
ボランティアの現場は、なんだか、社会の縮図で、個人ボランティアが
一般市民とすると、自治労の方は、官僚。自衛隊は自衛隊として(彼らは
スゴイ。とにかく、スゴイ。今回、自衛隊の人に対する私の眼は完全に
変わりました)赤十字の人は、なんというか、ボランティア社会の頂点に
君臨する共産圏で言えば共産党のような存在でした。一般社会との最大
かつ決定的な違いは、ボランティア現場では、貨幣が介在しないのです。
そのため、とても、シンプルに社会の構造みたいなものが、くっきりと
浮かび上がったのかも知れません。ジオラマのように全体が見渡せるので
何だか、これまで、非常に複雑だと感じてきた社会というものが、案外、
単純なものかも知れないという錯覚に陥るほどでした。
活動の中で、本当に追い詰められた被災者の方も見かけましたし、明るく
談笑していても、ふとした瞬間に底知れぬ不安を見せる被災者の方も
いました。でも、ほとんどの方々は、とても、暖かく、私のような者も
受け入れてくれる懐の深さを見せてくれました。三週間という期間、
ありがとうと、ご苦労様の言葉だけを受ける生活を送ったということは、
私の人生の中でありませんでしたから、なんとも、貴重な経験でした。
結局、自分がやりたいことよりも、相手がやって欲しいことをやっていく
うちに、だんだんと、自分の居場所が見つかり、自分のやりたいことも
見えてくるという自分の会社勤めの中では得られなかった教訓を今回の
ボランティア活動の中で得ました。他にも、どれほどの多くのことを
得たのか、今はまだ、わかっていないことも、たくさんあると思います。
私を取り巻く多くの方に、ありがとうと申し上げて、「もうすぐ、一年」
「あれから、1年」の稿を終えます。ありがとうございました。
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